ほめるというか評価するというか


1号が3歳のころアメリカの幼稚園に入った。

とにかく親御さんが子供をほめるので面食らった。
ラブリー、キュート、ビューティフル、ワンダフル。
その理由も付け加えられていく。

親同士も、ほめあう、ほめあう。
ほめるのと挨拶が人セットになっている。

太った子には、「あなたは筋肉が強いのね」
好き嫌いの多い子には、「あなたは味のセンスが鋭いのね」
人を寄せ付けない子には、「あなたにはあなたの世界があるのね。とってもいいことよ」

うちの子は、言葉もしゃべらないし、運動も本当に不器用、
洋服にヘンなこだわりがあって 一年中キティーちゃんの長袖を着ている。

「うちの子、悪くって」というのは、日本では普通の挨拶だ。
私もそれを言ったときに、
ほかの親御さんたちの、猛攻撃にあった。

「悪いとか とんでもない。何にも悪いことはしていないわよ。」
「あなたの子供はワンダフルよ」
「言葉の通じない国にいるのは勇気がいることよ」
「とっても注意深くって、静かな子ね」
「思慮深いお子さんよ」
「今日はクッキー12枚食べたのよ、すごいわ」
「今日は、1号は、初めて、エアトロリーに乗ったのよ、ちょっと、来て、みてあげて」

ほめるところなどない、と思っていたのは、
私は、「ほかの子よりもすごいところしか、誇れない」と思っていたからだった。

「エアトロリーに乗ったのを見てあげて」っていったお母さんのお子さんは、
うちの子よりも小さいのに、とっくに出来てるのだ。

うちの子とっくにできるわよ、といういやみで言ってるのではなく、

昨日できなかったのに今日出来た、嬉しそうな1号を見て、
という、1号の成長そのものを喜んでくれてるのだった。

自分の子だけでなく、人の子も同じに 成長を喜ぶ。
子供同士、比べる必要はない。
よくなっていくのは楽しいこと
自分たち親は、その補助をしている

そういうことだったらしい。

でも、コドモがしでかす、間違った行為を、きちんと教えるときは、譲らない。

つまり、「うちの子は太ってるから、鈍くって、もう!」とかいっても、
親同士の体裁はそれで整うけど、コドモにとって、徳になることはひとつもないので、
「あなたは、大きいのね。筋肉が強いのね」というと、コドモも単純で、
「ウン、僕筋肉が強いの、みて、みて〜」といって跳ね回っている。


まあ何でもかんでもいいほうに取るというのも アレなんですけれど。