”二次的な問題のほうが大変”とは?

「たとえば、本人に障害があって(そのことは一次的なもの)

そのことよりも、

二次的な問題のほうが、うんと大変なんです」


と、いろんなところでいわれた。

言われてる頃は、意味がわからずに あいまいに「そういうもんなんですかねえ」とうなずいていたんだけど

最近は本当にそうだなあと思う。

たとえ本人の障害の程度が軽くても、周りとの関係がうまく行っていなくて、
自分はダメな人間だとか、馬鹿にされる、いじめられることへの恨みとか
わかってもらえないつらさとか 対等に付き合える友達がいないとか

そういう問題のほうが、うんとうんと大変だと思う。

子どものころに障害が見つかって、親もショックながらもそれを受け入れ、その子にあわせた補助を受けてきたお子さんと、

障害の程度が小さいために、障害だとは認識されずに、親も悩みながら、「もっとがんばれ」だの「それではダメだ」の、「何でおまえはみんなと同じようにできないんだ」などといい続けて 心があれて自信を失ってるお子さんが、

能力的には後者のほうがずっとあるのに、
難しそうに見える。

特殊学級に小学校の間居て見たのは、
特殊学級から 普通学級に行くお子さんよりも、

普通学級から、荒れた状態で特殊学級にやってくるお子さんのほうが ずっと多かったと思う。
そしてその子どもたちは、時間をかけて、慣れたころには、「ここがイイ、ここにきてよかった、元のとこには戻りたくない」という子が多いみたいです。

普通学級にも、何かの補助が必要なんじゃないかなあと思われる子は、たぶん一般的に思われているよりも、ずっと多いと思う。

その子らが問題を起こすから隔離しろといってるわけではないんです。
ほんとに、言葉通り、その子自身に補助が必要なんではないかな、
と思うだけです。

集団に入れておけば、そのうち追いつくだろう、

と私などは 1号が幼稚園時代には思っていたのですが、

こどもが、いろんなことができないで困っているのに、親が(私です)なんの補助もせず、こども集団ではいじめられる一方で、先生からも「反抗的(本当は、指示が通っていなかっただけ)」と疎まれて、

そりゃああれるよね、荒れるしかないよね、ごめん、と申し訳なく思うので書きました。


特殊学級でやっていることは、正直1号にはぬるすぎると思います。
たまに、「1君、普通学級で大丈夫なのでは?」と聞かれることもありますが

でも、やっぱり、ゆっくりできる居場所があって、いろんなことを積み重ねて、できることをさせてもらって、ほめてもらって、高学年になったら下級生をかわいく思い、いじめられる友達をかばったり、いろんな人が居る事、人というのはいやなときも在るけどいいときもあるもんだ、

みたいな事を学ばせてもらって、

よかったなあと思うんでした。

普通学級でも、いろんな子どもを扱える先生に見てもらえて、ゆったり、いじめもなく過ごせるのなら、
それがよかったのかもしれませんが、

子供が安心していれる居場所がない状況では、
できることの積み重ねも難しく、どんどんこじれていくんじゃないかなと思っています。