軽度の知的障害

というキーワードでこのブログを見てくださる方が多い模様…

私はですが、1号が「自閉症」と言われた(のが先でした)時よりも、
「知的障害もあり」と言われた(のちに)時のほうがショックでした…

しかし、軽度知的障害のお子さん対象の学級や高校(正確には、高等部というべきでしょうか?普通高校ではない場合も含むので。でも普通高校でも、知的障害のあるお子さんを受け入れる学校があるのですが)などを見学するうちに…

「自分のこのくらいの年齢では・・・怠けてた」「同じ年代の普通の子では生意気盛りで手を抜く子も多いのに、こんなに頑張っているんだな」
「真面目でやさしい良い子にしか見えないな」「どこが障害なのかな」

と感じ、

「うちの1号も、これくらいの感じに成長できたらいいなあ…」と



自分が 知的障害をよく知らずに、怖く思ったり、差別したりしてたからショックだったんだなあ、と思うようになりました

うちには下に普通の子たちもいるので、1号も、普通に見えるよ?といわれるときもあるけど、

やっぱり一号には何かが大きく欠けているというのは日々実感しています。



でも、でも、ほかの子に大きく欠けてるものを、1号(やほかの、知的障害があるといわれてる子たち)が持っているなあというのも確かに感じるんです


どっちがいいとかではなく、どっちもいるから世の中、面白いし、いいのではないか…

と思うのですが、どうでしょうか


知的障害のある子たちの学校も、日にちを決めて授業が公開されていたり、予約の上見学ができるとか、行事は自由に見れるとか、いろいろみれる機会はありますので、


ぜひ見てみられることをお勧めします。(特に、同じようなお子さんをお持ちの方は。先の見通しが立ちやすくなるので)

私も、1号が小学校低学年のころから、見に行ってました。

でも、誘っても、見に行こうという人は自分の周りにはあまりいなくて、でもすぐに小学校時代は過ぎます。その時になって慌てたり、誰が言ったかわからないようなうわさを信じて惑ったりします


そしてなにより・・・とても一生懸命な生徒たちが見れたこと、支えてくれる先生方や学校があるとしれたこと、居心地がよく、いい学校があるんだなあというのが分かってよかったです。

できればそういう学校が、もっと増えてくれるといいな(必要としてる生徒に対し、学校の数が絶対的に足りない)…と切に思います、


でもそのためには、子供が小学校頃から活動(設立の運動やお願いをすること)が大事だったのではないかと思いますので、書いています

できることがいっぱいある時期に、知らなかったということが多いかもしれないので

また長期的に考えることで、当時の、自分の子供の問題行動で頭がいっぱいだった状況も、少し救われる面があると思います(問題行動はいつまでも続くわけではない、同じようだったお子さんが すっかり落ち着いた姿を見れる)