「なにを」ではなく「誰に」習う

昔読んだ、小林カツ代さんの本に、
チラッと、「子供にピアノを習わせたいんだけど、
見学に行ったらあまりいい先生と思えなくて」という話が載っていた(と思う)

それを聞いただんなさんが、「何を習う、が大事じゃなくて、”誰に”だね(=そこはやめとけ)習うというのは、その人の人生に触れるということだから」と答えた、と書いてあった(本が手元にありません、あくまで私の解釈と記憶です)

私はもう十何年か 小林カツ代さんの本が好きなんだけど、こんなだんなさんいいよなあ〜と思った。

がしかし、自分が子供を持って、
その子供を、「特殊学級にやるべきか、普通学級に行くべきか」とある人に相談したとき、
その人は、
「どっちに行くかが問題じゃないですよ、お母さん。
どんな人に接するかで1くんの人生が決まると思います」と。

そのときは、なんじゃその禅問答は、と思った。その人は1号が荒れてるときになついた唯一の人だった。今振り返るとほんとにそうだと思う。


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先日、ある場所で、授業を参観させていただいたんだけど、



教室Aの先生は、

子供の様子をよく把握しており、できるだけそれぞれに合うようにアレンジされていた。
子供の側に立ってくれて、
しかも 大人としてこの子達をどう補助していけばいいかという視点もあるひとだと感じた。


教室Bのせんせいは、学習内容に注意が多く割かれていて、子供の間違いをきつい言葉で指摘し、
ご自分もちょこっと間違われたんだけど(たまたま私も知ってる内容だったので、先生の言った事が間違ってることは私にもわかった)、それを子供が、「いや、そうじゃないです、〜です。僕はやったことがあるので。」といったら、
そのことは頑として「間違いではない」「一般的にはこうです!もう、いいでしょ、それで次にすすみます。」と言い張って、おさまらない子供と先生が争っていらした。


うわあ、これは 断然、A先生だなあ。

「おっ、先生間違えた?ありがと。詳しいんだね」じゃダメかなあ??
自分より詳しい子がいたら、そのこの話をみんなで聞けばみんなにいいと思うんだけど。


しかし習い事は別として、学校では、親も子供も先生を選べない。
(昔読んだ本で、わが子が障害を持つ親が集まって学校を作り、これはと思う先生を集めたとあった。それができたらいいんですけどね)

いい先生に当たったらそれこそラッキー、
困った先生に当たると、衝突しませんように、大きな問題が起こらないうちに一年が早くすぎますように、なるべく影響を受けませんようにと祈る。(もちろん、先生のほうが、子どもや親にそういう感情を持つのも自由で)

だんなは、「そういう先生にはこちらが影響を与えるべき、それがお互いの成長につながるんじゃないの?」って言うけど、
「自分はいつも正しい」と言い切る人に 違う意見を言うのは、ただのクレーム多い親としか思われないことは私も経験済みだ。


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1号の担任ではなかったのに、1号とよく話しをしてくださり、
お手紙を 転勤された今でもくださる先生がいらっしゃる。

1号はその先生が大好きで、かなりしつっこくしたので、
「しつこくしてすみません、担任の子供でもないのに」といったら、
「私は1君のしつこいところがいいんです。ダメなときは、”今はダメ”ってはっきりいいますから、いいときはいいんですよ。」とにっこり。
もちろん社交辞令だとわかっているけど、
いつもゆったり、にっこり。
でも ここぞというときは しっかり意見を言われるのだった。

1はその先生のお手紙を、大事に大事にし、「みるとこころが元気になる」といい、
書いてあることを全部暗記している。

そして、書いてあること以外にもいろいろ想像をしている(たとえば、こう書いてあったけど、今頃は 時間が経ったから こうなっているんだねとか)。
もともと視野の狭い子の視野を広げてくれたと思う。


1に、人生を分けてくれた先生だと思う。