障害、難病などのテレビ番組

昨日、たまたまテレビがついていて、難病の番組をやっていた。


きいたことはあるけどイメージできなかった病気(レット症候群、や、紫外線に当たれない病気)や、
まったく知らないもの(熱さ、痛みを感じない、汗をかけない病気)もあって、
興味深くみた。

レポートした芸能人や司会者も涙ぐんでいる。

ある親御さんが、その病気の対策だけでも大変だろうなと想像されるんだけども、
「病気だけがすべてでは、ないんですよ」といっていた。


それは、私も感じる。
病気は、その子どもの一面なんだ。
主体は、「子どもの人生」のほうであって、「難病」のほうじゃない。
うちの子は、「難病の子」ではなく、「こどもに、たまたまそういう難病がある」

でも取材は、家族や子どもの人生ではなく、
珍しい病気や、症状を主体に語られていく。


(その親御さんがどういう意味でいわれたかはわからないけれども)




そして最後の、司会者のしめの言葉は、((やっぱりね、、、))と思うものだった。

「子どもはお母さんを選んで生まれて来るといいます、
お子さんはこのお母さんの下に生まれて幸せだと思います。

お母さん、これからも がんばってくださいね」



私はいつも思うんだけれども、この、「はしごをはずされる感覚」。

一緒に泣いてくれて、でも、「ああ、自分はそうじゃなくて良かった」って帰っていかれてるような、、、考えすぎ?


自分たちは、少数派という離れ小島にいて、
大陸から、こちらのことを理解しようと、はしごをかけて取材してくださるのはありがたい。
これまではきっと、離れ小島なんて、「なかったもの」だったんだろうから。


が、取材が終わると、はしごはきちんとはずされて帰っていかれる。


「お母さん、がんばってくださいね」と言う言葉を残して。



「何か手伝えることはありませんか」
「何か 困りごとや、ここが改善されるといいということはありませんか
(それが現実には、かなわなくとも、)」

と聞いてくれるでもなく、


感動のなみだを流していただいて、あとは、


他人事。


日本に200人の病気だから、自分の子供や孫には当たらない、関係ない、当事者は大変ね、で終わってしまうんだろうな。


番組全体に文句があるわけでは決して、ない。


また、離れ小島のほうからも、はしごをかけて、
大陸とうまくやっていく努力も必要なんだね。


にっこりと、「もし、よかったらですけど、ここを手伝ってもらえませんか?」と。

もちろん、聴かれたほうは 「かわいそうだからやってあげなきゃ!」と
無理する必要はなくて、
気が向けば手伝えばいいし、事情が許さなかったり、気が向かなければ普通に断れる。


「私、今日病院で検査なの。もしよかったら、送っていただけるとありがたいんだけど」
「できないみたい、ごめんなさい、車は一台しかなくて、今日はだんなが乗っていってしまったの。役に立てなくてごめんなさい。あの人なら今日は いるんじゃないかな?きいてみたら?」
「じゃあそちらに聞いてみる、でもありがとう」

「そこのドアを、押さえててもらえませんか?車椅子なもので。」
「あ、いいですよ、ほかに何かしましょうか?」
「いえ、抑えていただけるだけでありがたいわ、
後は自分でします。いい一日を!」
「あなたもね!」

アメリカにいるときに、こんな感じだったので、それが日本でも根付けばいいな、と思ってかいてみました。

手助けしてもいい、という場面と、手助けしてもらえればとっても助かる、
という部分が出会っていない、という気がするんです。

もちろんそれは、少数派のほうからも、
えがおで歩み寄れる余地が あるはず と思うもので。