「そろって」「そろって」

 
3号が、幼児教室のようなもの(親が一緒についている)に行っている。

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どうしても、同じ年のころ、1号が行ってたアメリカのナーサリー(やっぱり、常時ではないけど親も参加、自分の子だけではなく、クラス全体、先生を補助するところだったので)を思い出す。

入園式も運動会も給食も、お遊戯も なーんにもなかった。
名前札はありました。
下の名前と、何歳と、何曜日参加と書いてあって、教室に貼り付けてあるので、来てない子はすぐにわかる。それを取ってつけるんだけど(だから名札の忘れものはない)、
どこにつけてもいい。
(名札が嫌いな子は結構いて、後ろにつけてるこもよくいた)

親は、好きなときにナーサリーに連絡して入り、どこのクラスに行くか、週に何回行くかも自由に決められるし、親が旅行に行くからといって子どもが長いこと欠席もよくあった。
合わなかったらさっさとやめるし、
制服もなければ 持ち物も服装もかばんも自由、おやつも、おやつの時間は決まっているけど、きっちりはしていない。
遊びが終わったものから手を洗い、もらったひとから、ばらばらに、いくつ食べてもいいし、「私は要りません」といえば、食べないことも自由だった。ジュースも、大きいピッチャーとコップが用意されているので、飲みたいだけ 「ついでもらえますか?」とついでもらって飲むのだった(うちの子は食べ過ぎてはいた事があるが笑って許された)たべ終わった人から自分の分を片付けたら、遊びの時間。
トイレも、したくなったらこどもが、「お願いします。トイレに連れて行ってください」と誰かおとなを捕まえて、一緒に行ってもらう。親でなくてもだれでもいい。

ただ、毎日、面白いことが用意されてるのだった…それをしてもいいし しなくてもよいのだった。

教師や親は、たとえば、「今日は、人形を洗いたい子は洗っていいわよ」
と伝え、洗い桶と さまざまな大きさ、色の人形を置いておくという感じ。
親の職業や得意分野を、ナーサリーに持っていって分け合うこともよくあった。(自分の子どもの誕生日のときなど)
チェロだかコントラバスだかを持ってきてひいてくれた親御さんもいたし、
私は 自分のときは、おやつをキッチンで作らせてもらって、麦茶を持って行ってみんなに飲ませたら、「(こども)これ、コーヒー?」「何であなたはコーヒーの味を知ってるの?」「コーヒーではないし、カフェインもないです、子どもも飲めます」
といったけどすこし騒ぎになった。

大人が準備した活動よりも、子どもが考え出した遊びのほうが面白いときもあり、危なくなければそれも自由だった。

2年居たが、一度だけみんなでダンスの時間があったが、広い部屋で音楽がかかって、先生も生徒も自由に踊り狂うだけだった。

ほんとにバランバランで、でも楽しそうだった。
(1号は、耳をふさいで座り込んだが、それでも「やらないの?楽しいよ!」だけで、何も言われなかった)

絵を描くのも、色水のバケツと筆、だれが何枚使ってもよい紙がおいてあるだけで、
描いた子は大人に頼んで、日付と名前を鉛筆で書き足してもらって乾かして家に持ち帰るだけ。(先生は、名前を書かれていない絵でも、誰が描いたか見分けていた)

貼ってほしいときはそういえば教室にはってももらえる。たぶん。

月謝の額もさまざまだった。

週に一回行くこ、5回のこで当然金額が違うし、
親が手伝いに来る分だけ 月謝が安くなるし、
共働きで手伝えない家庭はその分何千円か高い(↑にそのお金が行くので)もちろんおじいちゃんおばあちゃんやお父さんが来るのもぜんぜんかまわない(定期的に補助に行くひとには、たぶん結核でないという証明が必要だった)。

○才ではこんなことができます、というめやすのようなものはあったけど、その子自身が成長してればよくて、
子供同士を比較してどうのこうのということはまったくなかった。


私も、英語もろくにしゃべれないから、子どもたちが知ってる歌を歌えないし、「絵本読んで!」って言われると口ごもるけど、けど、子どもをトイレに連れて行ったり、絵に名前を書き込んだり、子どもがいろいろ話しかけてくるのをただ聴くのは好きだった。
先生の助手の日は、緊張もするけど、楽しみでもあった。
子どもたちは私を名前で呼び、
こっそり、
「mm、好きだよ」といってくれる男の子もいたのだった。
本当に、一人ひとりが 好みも性格も違う人間なんだとわかるのだった。今でも、一人ひとりをはっきり思い出せる。

違うのは認めつつ、でもうまく関係を持っていくためのノウハウはいっぱいあり 誰にでもわかるように、公開されていた。(自分の子の問題行動を、親だけが知らされずうわさになっていることはなかった。それはルールブックで、禁止とかかれていた)どの子の問題もクラス(親子)全体とスタッフ全員で共有されていた。

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どっちがよい、悪いではなく、とにかく、

日本は「並んで」「そろって」「一緒に」「待って」「同じに」が多い。

3号の行ってる所は、二号も行った所で、
一人ひとりをよく見てくれるし、
したくないことを無理にさせられることもない、比較的かなり自由なところです。(1号が日本で行った幼稚園は軍隊式だったので反省があり、2の行く幼稚園は 軍隊式、排除排除式の幼稚園ではないかどうかをよおくみて決めた。軍隊式には軍隊式のよさがあるのでしょう、きっと。)

それでも、おやつですといっては、まずみんなしたくなくてもトイレに行き、履物を並べ、手を洗い、みんながそろって座ってから、大きい子にも食べるこにも小食のこにも、同じ数を配り、一緒にそろってお歌を歌い(振り付けのお手本つき)、そろって挨拶をし、そろって食べ終わるまで待つのね。

「みんなが何をしているか」「それに自分を合わせられるか」が非常に重要。


ああ、こうして、小さいころから、周りに合わせる、自然にそろうようにしていくんだなと思う。

確かに、なわとびも折り紙もお絵かきも歌も踊りも、日本の子どものできることのレベルは高いと思う。非常に器用なのは、いろんな機会を持たせてもらってるからだ。

そろって教えるのは効率がいい。


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追記:自分が子どもだったら、1号が行っていたナーサリーのほうがよかった。
「そろって」「そろって」は息苦しくてしょうがない。
自分はあまり合わせる能力がないので、
わざとではないけど 遅れてしまったり、はみ出してしまったときのつらいことよ、、、。

アメリカのナーサリーと一口に言っても、場所によりぜんぜん方針が違うと思います。1号が行っていたのは、「コミュニケーションに重点を置いたナーサリー」だったそうです。入った後で知りました。