理解を求めるということ…

1号は、5歳か6歳ころ、障害という診断をもらったわけですが

早くもそれから10年になります。

障害と言われた時は、そもそも自分の知り合いに子供がいるひと自体が少なかったし、こういう感じの子は誰もほかに思い当たらず、だれにも相談できなかった(と思う、愚痴ったりはしたと思います)

(しかし のちに診断がついてみて調べると、インターネット上には、「子供が自閉症です」というかき込みはいっぱい見つけて、うちの子よりも大きいお子さんの様子も読むことができた。)



ただ日常、親戚にも、地域にも、こういう感じの子はいなくて、

「あんたが神経質だからね」と言われたり、逆に「しつけが甘すぎます」と言われたり、「育てたように子は育つって言うからね。」ということば(1号が2歳の時預けた託児所で)は、わけもわからず何だかグサッと胸に刺さった。

「私ではない誰かが1号を育てれば、もっといい子になるんだろうな…」と

「女は働くべきではない!!浮気するし金遣いが荒くなるだけで収入は増えない!」と言っていた義母も、この頃には、「1号、私の友達の孫とかと比べるとおかしいよ、保育園に入れてあなた働けば?孫さんは、もう電話に出るってよ…もうおしゃべりするってよ…二人目もできないのになんで働かないの」

というようになっていた…(友人のお孫さんは保育園に居るからで発育がいいのだ!と)

そういうわけで私は、「自分が働いて、誰かに1号を見てもらったほうが良いらしい」と思い、
資格を取ったり、運転免許を取ったりしてその間1号を託児に預けたわけですが、
どこの託児でも、1号は何時間もただ泣くだけで、指示も通らないし、輪にも入らないし、
結局、やんわりと「見れません」と言われて 預けるのをやめるのでした…

そのころ、小児科や、保育士をしてる人に、「この子、どこかが違うような…?どうすればいいですか?」と尋ねたりもしたのですが、
「すごく、集中力あるよ!このくらいの子っておもちゃもすぐ飽きるよ、大器晩成よ」
「どこが心配なの?おとなしくて、いい子じゃない、お母さんが信じてあげなくてどうするの」
という…



なにかが違うけどそれが「悪い」ことなのか?何をすべきか??が全く分からなかった。

3歳検診の時も会場で待ってる間に眠っており起きず…(昼夜逆転してた)


結局、自閉症と診断がついて10年経っても、障害ですと言ってもいっても、
しょっちゅうあっていても、聞いてくれない人は全く聞いてくれないし、(大学行けば治るよ、とか…)

遠い親戚でめったに会わない人でも、
「テレビで何とか障害って言ってるのを、見たけど、1号君に似てたから…
たいへんなんだろうね、今後、どうするの…?」
と聞いてくださったり、折々、気にかけてくださる人もいた。

さいころの1号は結構嗅覚があって、わかってくれそうな人や排除しない人が分かっているようだった。
べったりくっつくわけではないけど・・・

学校にはいったら、「支援学級だから、お互いに分かりあえていいかな!」と期待があったのですが、これも親同士の性格だの相性だの、そういうものによるらしく、ひどいハレーションを起こした(親同士が、です)こともあった。だから何となく、当たらず障らず、無駄なことは言わないでおこうかな…という感じで過ごしてきた。

引っ越しを繰り返したので、どこに行っても、知り合いのいない状態で周りはすでに輪ができているし・


結局、障害のある子がいても、親もその子のことが全部わかるわけではないし、先生もそう、親同士の付き合いもそう、子供同士でもそう。

うまく行ったりいい時間を過ごすこともあれば、そうじゃないときもあって、障害の名前が同じでも全く違うタイプの子もいれば、にてるから友だちになってうまく行く、でもないようだった。

とってもいい先生でも、時期が来れば異動され、異動先にも先生を必要としてるお子さんがいる。
子どもとうまく行かない先生でも、子供も何かを得ている…
そしてどの先生にあたるかも親がどうにもできない

障害のある子を持ったら、あわてず騒がず、調べられることを調べ、見学できるところはなるべくいっぱい見学し、
いろんなお子さんやいろんな場所を見るのがいいと思う。

そして選べる範囲で「子ども側から見て」居心地のいい場所に居れるほうが良いように思う

いいサービスなり、いい場があったら、できるだけ親も協力して、その場所が無くならないように、いいサービスや行事が続いて行けるようにしたほうが良いみたいです

(せっかく有ったいいサービスが、続いて行かなくなるのをいくつか見ました、せっかく立ち上げ、維持してあっても、なくなってはもったいないです)