Nobody Nowhere

ドナ ウィリアムズ(というお名前の 高機能自閉症をもってる女性)の、
自閉症だったわたしへ」という本がある。

20年前くらいからあった本だと思う。

読んだ当時私は20歳くらいだったと思うので、、、

で、読んだときは、かなり胸に来るものがあったので、いろんな人に勧めたりもしたし、
でも一方、「当たり前のことを結構大きく書いてる感じがするなあ・・・」と思ったんだけども、

そもそもなんで読んだんだろう。


私は子どものころから、「自分の世界に入り込んでる。。。」と(非難的に)よく言われてきたので、
自閉症」という言葉に反応したんだと思う。
自閉症は何かの精神疾患だと思ってたんだと思います。


しかし、「だった私へ」というタイトルのせいで、
「治るもんなんだな」とうっすら思ったまま・・・すっかり忘れていた。


その10年後くらいに自分が産んだ子が自閉症と診断されるわけですが。
具体的に根拠を挙げて診断されたのですが、

「でも私もそうだったし」

「変わっていることは認める、でも、悪いわけではないし」

と思ったり・・・

で、自閉症とはなんなのか?


と いろんな本を読んだりするうちに、

どうやら私自身も、怪しい感じだと思い至るわけですが。

自閉症児がいると、そのお母さんやご家族が自閉症だと決め付けているわけではありません。
たまたま1号がそうで、私もそっくりな行動の幼少時代をすごしていたというだけです)


話は本に戻って、

原題は、「Nobody Nowhere」である。

「誰もいない、どこにも居ない」という直訳では、

これが自閉症に関する本だとはわからないし(当時は特に・・・自閉症がなんであるかを知る人は 少なかったはずで)、その訳が適していたんだろうけれども、

今思うと、Nobody Nowhereって、

この世にいるのに 独自の世界に生きていて、そこにいないような自閉症の人の感じを、すごく言いえてると思う。


かなりちいさな赤ちゃんのころから。。

人というのは かかわりを持ちたがるものなんだなあと

四号をみてて思う。

抱っこして、目が合うと、「ごにょごにょ」、「んぎゅ〜」と
しゃべるし・・・

(目が合わないとしゃべらない。
電車の中でも、よさそうな人にはゴニョゴニョ言うし、笑いかけるし、

家族のメンバーにも、それぞれ違う反応をして 使い分けているみたいだ)


(わたしは、お乳じゃなくて、お話がしたいのよ!)

という主張を感じる。

ちゃんとここにいる存在、というのがある。


(1号も同じような音は、発していたけど、独り言みたいな感じで、
こちらと心が通じるような手ごたえは薄かった気がする。

なので 私は平気で 運転免許や 資格試験の勉強に 何時間も没頭できたのだ。

よその「ママ」「ママ」言うお子さんを見て、
「手がかかって大変そうだなあ」と気の毒に思っていたくらいで。

なにぶん15年ほど前のことなので はっきり思い出せないが・・・)

1号が2歳くらいだった当時、あちこちの託児の先生などから、
「何かがおかしいんです」「何かがほかのお子さんと違う・・・」といわれたことは・・・今思えば、ちょくちょくあったんだけど・・・


自閉症がある本人が、そのこと(自分の外側の世界への興味やギャップ)に気づくと、

決して、自閉症であることが、治るわけではないのだけど、

自分をこの世にうまく合わせるには?という
努力なり工夫なりを 積み重ねていくように感じます。

普通の人が持っている「心の視力みたいなものは弱い」ので、
理屈で補おうとするから、
ちょっと不自然なのかもしれませんが・・・

決して、「心が ない」わけではないんですよね・



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で、改めて検索してみたら、同じ作者で

Somebody Somewhere という続編が出ているらしい。

読んでいないけれども、どうやら彼女は自分の場所を見つけたんだな、と

とてもうれしい・・・